INSTITUTE of NATURAL SCIENCE and EDUCATION in SOKA SCHOOL SYSTEM

野鳥・自然環境研究所報告

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第4巻第1号 (通巻第13号)

2004年5月10日 発行


別海フィールドの湿原植生について

別海フィールド委嘱研究員  牛沢信人


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    (北海道未開発泥炭地調査報告 開発庁昭38)

    北海道の湿原
    国の調査対象となった北海道の湿原(昭57)
    (面積・単位はヘクタール)
    釧路湿原(釧路管内)21,440 低層湿原沖積平野
    サロベツ原野(宗谷・留萌管内)3,900 高層湿原
    霧多布湿原(釧路管内)2,250 中層湿原
    風蓮湿原(根室管内)1,600 中層湿原
    浅茅野湿原(宗谷管内)700 中層湿原
    雨竜高地湿原(空知管内)450 高層湿原高山
    浮島湿原(上川管内)14.8 高層湿原
    ニセコ神仙沼湿原(後志管内)10 高層湿原
    無意根山大蛇ヶ原湿原(石狩管内)6 高層湿原
     
    北海道の河川流域別泥炭地
    (面積・単位はヘクタール)
    種類低位泥炭地中間泥炭地高位泥炭地総面積
    石狩川流域25,0002,00028,80055,000
    十勝川流域2,3502,3104,660
    サロベツ川流域9,0003,9001,70014,600
    天塩川流域3,1202,2505105,880
    釧路川流域22,2002038022,600
    標津川流域8601,5203802,760
    風蓮川流域2,420220302,650
    ベカンベウシ川流域6,32001906,510
    71,27012,20031,190114,660

  1. 湿原とは
  2.  植物が枯死したあと気温が低ければ、微生物の働きが不活発で遺体は完全に分解されない。未分解の植物遺体が水底に残る。これが毎年繰り返され、いわゆる“草の漬け物”が年に1伉度の厚さで堆積していく。雨量が少なくても霧がかかったりして、空中湿度が高く蒸発量が少なければ、同様に湿原は生ずる。釧路地方から根室地方にかけては夏の気温が低い上に、海霧がかかって空中湿度が高く、日射量が不足で蒸発散量が抑えられてきたために、湿原の形成が促進された。


  3. 湿原の辿った歴史
  4.  日本の農業は、古来水田稲作が最も重要であるという思想に貫かれてきた。そのため湿原を水田化しようとの試みがなされてきた。しかしそれは多くの場所で、自然の厳しさにあって成功するに至らなかった。稲作どころか畑作すら同様の目に遭っている。いわゆるこの根釧地方では長い苦闘の末、湿原開発の関心は酪農へ移り、草地改良事業に向けられた。すなわち大型酪農経営、牛の多頭飼育と機械化による農業改善の施策がいま進められている。


  5. 湿原の持つ意味
  6.  古くは湿原は、人間の生活とか利用という面からみて厄介なものとされ、ほとんどプラスの意義は認められなかった。そのために湿原を消滅、縮小させることに力を注いできた。ところが近年世界的に、日本で云えばいわゆる戦後、湿原の持つ重大な意味が認識されるようになった。
     前項に述べた農業の大型経営は人間の営みと湿原の保護を両立させようという文脈の中で考え出されてきたものである。ここで湿原の持つ意義を少し長くなるが「自然との共生」(Newsweek 1989.9.21、和文)という論文から引用したい。それには「沼地」とあるが、沼地は湿原の前身であるという意味で、ここでは湿原と同じ意味に受け取って良い。

    「沼地は命をはぐくむ」

     ではなぜ、湿地は生態系の維持に欠かせないのか。まず生命を育む力が抜群だし、水から汚染物質を除去する天然フィルターの役割も果たしている。湿地から生まれる生命は、カタツムリや甲虫、植物のアシなどほとんどは退屈なものだ。世間の関心はコンドルやハイイログマなど魅力的な動物に向けられがちだが、本当に必要なのは自然界全体における生命の多様性の保存なのである。大地は次々と舗装されていく。だからこそ、ありきたりの湿地が大切になる。そこでは、今も活発に進化が行われていて、遺伝子の保存に最も適した場所だからだ。
     地球全体から見れば、どの種が絶滅しようと大した問題ではない。重要なのは、様々な種が常にそろっていて、多様な遺伝形質が蓄えられていること。そして、それらが環境のいかなる変化にも対応できることである。遺伝子工学を手にした人間が環境の変動(おそらくは自ら作り出したものだが)に対処するため、名もない生物のDNAを拝借したりしないと誰にいえるだろう。カビからペニシリンが見つかるなど誰も予想しなかったではないか。


     湿地は小動物や鳥類の繁殖地、特に後者の渡来地としても欠かせないものであることは云うまでもない。ここで筆者のささやかな体験を付け加えたい。
     北海道研修道場の湿原には、かなりの量のバイケイソウが初夏をいろどる。これは美しい花をつける高山植物でもある。このどちらかといえば嵩高い草本が枯死ののちどうなるかを意識的に追跡してみたことがあった。意外なことにこれは晩秋には完全に消滅して痕跡もとどめないのである。ということは、消滅して湿原の中に養分として還元されたものと考えて良いであろう。
     近年山の樹々が沿海の海産資源を育てるということがいわれ、これがおおかたの常識となり、魚族を増やすために漁民が大挙して上流の山々に植樹することが行われている。植樹は河川領域よりも回路が長くなる分むしろ湖沼、湿地等の傍らの方が良いということは理解に難くない。


    野付崎
    野付崎の原生花園

  7. 湿原は最も壊れやすい自然である
  8.  湿原は最も壊れやすい自然といわれる。河川改修はすぐにその下流の湿原域を変化させるし、ミズゴケ類も一度踏みつけると、黒く枯死して容易に回復しない。自然を人の顔にたとえて、「ほほや額は多少ぶったり、こすったりしても大丈夫であるが、瞳はたとえ指をつっこんでみたくても、そうしてはならない。湿原は自然にとっては、丁度この瞳のようなものといえよう。瞳を守るためには、まゆげが必要であるし、まつげも重要だ。ときどき目薬をさしてやった方がよいし、ときにはサングラスもほしい。自然の瞳に接するにはそれだけ慎重でなければならない」という。
     湿原というかよわい自然をいためないようにつきあってゆく。ミズゴケ湿原の木道、河川や湖沼を静かにすべるカヌー、冬の凍結した河川や湖沼を散策するクロスカントリースキー、いずれにしても、湿原にとけこんで生活している生物の存在に限りなく近づいたスタイルでのつきあいが不可欠であろう。エゾシカやキタキツネのように踏査し、水鳥のごとく訪れ、タンチョウのごとく散策する。それはけっして大挙してのりこんだりはしない。そんな配慮が必要なのかもしれない。


    湿原の発達様式
    湿原の発達様式(辻井、1985)

  9. 湿原の形成(地史的考察)
  10.  ウルム氷期の最盛期(およそ2万年前)、気温は今より10℃も低く、氷河が大きく発達し、海水準は100m程下ったとされている。その後9000年前頃から温暖化と共に海水準は上昇に転じ6000年前頃最高のレベルに達した。つづくその後の冷涼化で海岸はおよそ3000年かけて、いまのところまで後退した。その間年1mmの割合で厚さ3〜4mの泥炭を堆積したといわれている。湿原の受け皿になったのは、西方の屈斜路湖火山等のカルデラから吹き出された大量の軽石や火山灰等の厚い火山噴出物からなる地層であった。その火山活動はもとをただせば釧路沖およそ300kmの千島海溝の場所で太平洋プレートが北米プレートの下に沈み込むことによる蓄積された刺激に由来するものであった。


  11. 沼から湿原へ
  12.  右図には、上から沼が青年期から老年期に推移し、湿原へと代わっていく様子を模式的に示している。沼は青年期に、周囲にヨシ、ガマ等がはえて浅くなり、沼の中心に浮葉をもつコウホネ、ついでヒルムシロ、イグサやスゲなどが成長して、水面が見えなくなったり、一部に小さい池ができたりして湿原へと遷移していく。閉ざされるのは100年、1000年といった時間的スケールで、1年に1mm程度の割合で堆積がされていく。


       

  13. 低層湿原、中層湿原、高層湿原
  14.  前項では、湿原形成にいたるまでの経過を述べた。湿原は、水や栄養等の環境要因によって上の表記に挙げたような性格の湿原がつくられる。
     低層湿原とは、外周から何らかの栄養物質が流れ込む機会が大きい場合に生ずる湿原で、ヨシが優先する。この段階では表面が平らで、低層湿原と呼ぶ。川岸や台地に近づくとヨシ原とハンノキが主体の低層湿原ができる。ところが長い年月がたつにつれて、湿原は腐植酸によって次第に酸性化し、ミズゴケが繁茂し出し、湿原上に小さな塊となって成長する。こうして低層湿原の一部が高くなったり低くなったりの凹凸を形成する。植生は植物自体が水を保有することができるミズゴケ類にかわる。これが流水の影響を受けない高層湿原である。湿原の中央部が高くなったものをブルトと呼ぶ。ブルトの小丘がならび、それにガンコウラン、クロミノウグイスカグラ、イソツツジ、コケモモ、ヒメシャクナゲ、ワタスゲ等が生える。ブルトの基部にはヤチヤナギ、ツルコケモモ、タチギボウシ、コツマトリソウ、ヒメワタスゲ、モウセンゴケ等々が生える。ブルトの谷間は相対的に湿度が高く、時には水面が見られ地塘と呼ばれる水たまりが生ずる。ミズゴケの上には極貧栄養の帰結として食虫植物のタヌキモ、ムラサキミミカキグサ等もみられる。
     ミズゴケ湿原は、湿原のお花畑であり200種に近い高山植物、寒地植物、湿性植物が生育するという。ミズゴケ湿原のような過湿地、土壌条件が悪く貧栄養な環境になぜ、このような多彩な植生がみられるかというについて次のような見解がある。これらの植生は、競争には弱いが適応力が旺盛な氷河時代の遺存種だからというのである。中層湿原というのは、上述の低層湿原と高層湿原の中間の性質をもつものである。

    ヒメシャクナゲ
    ヒメシャクナゲ
    ヒメワタスゲ
    ヒメワタスゲ
    モウセンゴケ
    モウセンゴケ

    ヤチボウズ
    ヤチボウズ

  15. 谷地坊主(ヤチボウズ)
  16.  ここでいわゆる道東の湿原に多い「谷地坊主」(ヤチボウズ)とは、主としてスゲ類によって塊状または頭部が大きい柱状になった土柱のことをいう。流れの近くや春先に水が流れたり冠水したりしやすいところに生ずる。スゲの種類としてはヒラギシスゲ、カブスゲなどが多い。スゲの根が土を縛り、株の周囲は水によって流亡するのとスゲの伸張とがあいまって株は搭状に発達し、高いものでは1.5m位のものさえある。基部は、水に洗われて次第にやせ、スゲの株にのっている頭部は相対的に大きくなる。枯れたスゲの葉が頭部の周りに垂れ下がり、ざんばら髪の生首が並んでいるように見える。これを谷地坊主(ヤチボウズ)という。谷地は湿地の意味である。景観としては面白いがこれが発達すると牧野は劣悪化する。かつては春先に谷地放牧と称してスゲ類の新芽を対象に放牧した。以上、低層湿原、中層湿原、高層湿原というも、それらは標高には直接関係はない。高層とは、湿原が地下水の水面上でつくられたものをさし、低層湿原とは地表水、地下水にかかわるものをいう。


    河畔林

  17. ハンノキ河畔林
  18.  ミズゴケやスゲ類などが生育不良になり乾燥化が進むとシラカンバを交えるようになる。ハンノキの根はきわめて浅い。林床には草本でヨシ、イワノガリヤス、エゾヨモギ、ハンゴンソウ、ヤマドリゼンマイ、水たまりがあればミズバショウ、ヒメカイウ、エンコウソウが見られ、随伴する木本にはヤチダモ、ハルニレ、ヒロハノキハダ、モンゴリナラ、エゾニワトコ、ノリウツギ、マユミ等が多い。ホザキシモツケが群れをなして生えていることもめずらしくない。
    バイケイソウ
    バイケイソウ
    ヤマドリゼンマイ
    ヤマドリゼンマイ
    ミズバショウ
    ミズバショウ

    ササの進入
    ササの進入

  19. 湿原へのササの進入
  20.  ササは湿原への植生的な破壊者といってよい。日本海側の積雪の多いところでは背丈をこすクマイザサ、チシマザサに被われるが、当地方のミヤコザサは水に弱くほとんど湿原に進入しない。湿原がほとんど完全に水位低下に見舞われてから進入を開始する。


  21. 湿原の破壊に対処する
  22.  乾燥、富栄養化、土砂の流入等にどう対処するか。乾ききってしまわないように常に注意する必要がある。植物が生き生きと生育せねばならない。むやみに土や栄養物質が流入しないようにできるだけ早く変化の兆候を発見することが肝要である。樹木の肥大成長が年輪にどのようにあらわれるか等のモニタリングも欠かせない。


  23. 研修道場内の湿原の特徴
  24.  これまでは、湿原の形成と歴史、湿原の持つ意味、破壊への対処などについて概観してきた。では、研修道場内の湿原植生の特徴はどうか。
     まず第一に、地域的には標津湿原の範疇に含まれる谷湿原で、発達段階で云えば、前記7項の低層湿原から中層湿原への移行期に当たるといえる。
     第二の特徴として挙げるとすれば、ハンノキ−ミズバショウ群落の発達が顕著である。当幌川沿いには、ヤナギ類、ヤチダモなどの木本類にヨシ、ミズバショウ、ハンゴンソウ、バイケイソウ、スミレ類などの草本類やホザキシモツケなどの矮性木本の群生を伴う河畔林が茂る。この河畔林と丘陵地の間に湿原植生が展開している。
     第三に、北方の自然植生の特徴や形態がヤチボウズと共に見られると云うことである。ヤチボウズ群の生成機構については今後の研究課題であるがこのヤチボウズは道東釧路湿原に最もふつうに見られる。
     そして更には、標津や別海などの周辺地域が開発される中でこの湿原と丘陵地を持つ北海道研修道場の自然は、貴重な財産と云ってよい。森林や湿原に生息する動植物の姿を調査したり、道東の自然環境と湿原の水の流れや水の化学性などを通じて湿原植生の保護などについて考察する自然環境教育にとっては絶好のフィールドだといえよう。
     現在の自然の仕組みがどのようになっているかを調査しながら、湿原植生の変化と周辺環境の変化を継続調査することなどについては今後の大きな研究課題であろう。


  25. “原生湿原”の植生調査
  26.  研修道場内の“黎明の橋”を中心にして南北に湿原が展開している。それぞれの湿原には“原生湿原”、“悠久湿原”と命名されている。ここでは、中層湿原の特徴を持つ“原生湿原”とその周辺域の植生について報告する。


    ギョウジャニンニク
    ギョウジャニンニク
    クロユリ
    クロユリ
    タネツケバナ、エゾネコノメソウ
    タネツケバナとエゾネコノメソウ
     
    キジムシロ
    キジムシロ
    エゾリンドウ
    エゾリンドウ
    ミツガシワ
    ミツガシワ
     
    エゾリンドウ、ワレモコウ
    ミズゴケの上にエゾリンドウとワレモコウ
    エンコウソウ
    エンコウソウ


    (参考文献)

    以上


    牛沢信人委嘱研究員(札幌市在住) 創価学園野鳥・自然環境研究所準備委員会発足以来、別海フィールドの植生調査に携わる。北海道大学名誉教授 鉱山地質学専攻。

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